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桂久武と霧島の歴史

資料提供:桂 甚吾

桂久武
 桂久武は天保元年(1830)5月28日日置領主第十二代島津久風の第五子として城下の日置屋敷で生まれた。
 名は歳(とし)貞(さだ)、歳充のちに久武。通称は、小吉郎のちに右衛門、四郎という。
久武の長子久暠(ひさはる)も西南戦争で戦死した。
 万延元年3月、造士館演武官掛となる。文久2年12月、大島経営の命を奉じ、藩士20名を従え大島に至り、又大島銅山経営掛を命ぜられる。元治元年大目付役に転じ、ついで家老加判役となる。
 久武、南洲翁と親交あり、常に国事を談じ、文書の往復絶えず、肝胆相照らすものがあったので内外呼応して藩論の帰趨(きすう)を定めるのに与って力があった。
 戊辰(ぼしん)の役起こるや兵器、爆薬、金穀等の充実等、軍をして後顧(こうこ)の憂いなく、維新の大業を達成するを得しめたるは、久武の藩に留まりて画策宣敷きを得たるに依るもの最も多しと称せらる。
 明治初年、藩政の改革に当り執政となり、同3年鹿児島藩参政に任じ、同4年11月都城県参事(いまの知事)に任じられ、同6年1月豊岡県令に任じ、正六位に叙せらる。幾何もなく病を以って職を辞し、荒田の海濱(末子桂九四郎宅)にト居す。
 偶々明治十年西南之役起こる及び、南洲の旧誼(きゅうぎ)を捨つるに及びず、薩軍に従ひて大小荷駄本部長となり輜重(しちょう)及び募兵に従事す。
 9月南洲等と共に鹿児島に帰りて城山に入り、24日岩崎谷本道上で流弾に斃(たお)る。

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西郷隆盛出陣の前夜 桂久武を訪ねる

 桂久武は西南之役に対しては平素非戦論者であり、出陣の前の日までは、この度の戦いには参加せぬと家人にも告げていたが、其の前夜南洲翁の来訪を受け、話し合いは深夜に及んだ。どんな話があったかは家族も知る由もなかったが、大方長年交友の離別の訪問であったと推測される。
 長い間の心の友に離別の訪れをする南洲翁の心境はどうであったろう。その訪問を受けた桂久武の思いはどうであったろう。
 人生の極所における語り合いであり、相友に許し合った者同志のみが味わえる夜であった。
 久武は翌朝、俄(にわ)かに家族に草鞋(わらじ)を出せと告げた。当日は南国には珍しく大雪であった。帯刀も普段差しのものを帯して出かけた。その時、出陣の意志があったかどうか、家人は見送りに出かけられたと思ったそうである。 一軍を見送り、遂に同行の意を決したのであろう。途中から家族に使いを出し、家伝の礼装用の帯刀大小と弓を届けるよう連絡があり、家扶(かふ)の井上六郎さんが農民姿に変装し、馬を引いて大口辺りで追いつき渡している。
 この帯刀は後、小刀だけは東京の方から送り返してきた。現在桂家で所蔵している。家紋散らしの鞘作りである。久武は陣中常に弓を従者に持たせたが、踊郷(現牧園)で敵軍と遭遇し、部下の兵が鉄砲で射撃しようとするのを止め、自分で弓をとって敵兵一人を射倒した。これはわが国において弓を実戦に用いた最後であったといわれている。また熊本城を囲んで矢文を放ったのもこの弓であると伝えられている。この弓は薩軍敗退の途次、霧島神宮に納めたが、大正の初め神宮から桂家に返され、桂家で保管していたが今次の大東亜戦で鹿児島市が戦災に遭った際、惜しくも焼失した。黒藤の強弓であった。
 城山帰還の後は、久武は島津啓二郎、新納軍八等と共に工作所を興し、鉄砲の修理、爆薬の製造等を監督し、また兵糧の補給に意を注ぎつつ、岩崎の西郷洞窟と向かい合いの洞窟に起居していた。いよいよ9月24日の官軍総攻撃には、久武は南洲翁と共に早朝、岩崎谷本道を進み陣頭に立っていたが、幹部としては最初に流弾を受けて斃(たお)れた。
 城山における十五夜に際し、桐野利秋、中島健彦らと共に歌を詠じ、
   「篝(かがり)火(び)の煙の上に澄む月の清き心を誰に語らん」 の辞世の歌を残した。
 桂久武は西南之役では、最も困難な大小荷駄本部長として西郷のもとに在って、糧食、武器、弾薬其の他の軍需品の輸送供給に当たったり、終始一貫西郷はじめ薩軍に後顧の憂いなく存分に戦えるよう全力を尽くした。しかも、その間に兵員や糧食、軍需品を集めるため、鹿児島へ数回も帰ったという。
 作家司馬遼太郎は小説「翔ぶが如く」の中で、久武がこの戦に参加したことは薩軍幹部から深い感激をもって迎えられたと当時の模様を述べているが、西郷も久武の参加は全く予想外であり、真実嬉しかったに違いあるまい。 「一番大事な時に一番大事なことを打ち明ける手紙を、西郷は藩政や県政、中央政府の重要な場面について、いつも久武宛に一番多く書き送っていることから考えて、西郷が平素から最も頼りにし、信頼していたのは桂久武であったろうと思う。」ということを歴史家鮫島志芽汰氏は公演の中で述べている。
 「英雄の心事英雄のみ知る。」西郷隆盛と桂久武は文字通り肝胆相照らす心の友であったのであろう。



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桂久武 舟牢の西郷隆盛を激励する

 西郷隆盛が藩主島津久光の怒りに触れて二度目に流されたのは沖永良部島であった。今度は帯刀も取り上げられ、途中の舟も舟牢の中に入れられ、厳しい監視付であったが、この時桂久武は密かに家来に命じ激励の手紙を舟牢の中の隆盛に手渡して傷心の彼を励まし、深く感動させたことは有名な話である。
 このことは「言行史伝大西郷全史」(田中満逸著)に大変興味深く感動的に描いてあるので、次にそのまま抜書きして置く事にする。
 「刺客は同志の使者」より
 大西郷の罪状が決まったので、即刻帯刀は取り上げられて、沖の永良部島へ渡るについても、厳重な舟牢さへ設けられ、眼光鋭い2~3の警吏さへもつけられた。
 さて、警吏の中に一人新たに鹿児島から来たという者があった。
何かの依託があるのであろう。薄気味悪くも眼を光らして、時々大西郷を盗み見し、ひたすら其の隙を狙っている態がありありと知られる。
そこで大西郷は早くも舟牢の中で刺し殺されるものであると覚悟していた。
どうせない命ならば、立派に死んでみたい。そして刺客の奴を驚かしてやりたい。士は其の名を惜しむとかやで、かく決死の覚悟をなせる大西郷は、刺客が匕首(あいくち)を閃かして迫り来る以上、きっと胸か腹を目がけるであろう。さすれば励声一番「もうーッ」と叫んで、もう一層深くその胸なり腹なりを抉(えぐ)るように言ってやろう。と堅く心を決めていた。
 ところが其の警吏は刺客にあらで、同志桂久武よりの特使であったのである。
 さて、舟が錨(いかり)を抜くと役人どもは、これで一安心だといった風に寛(くつろ)いでいる。それを見澄まして件の警吏は、大西郷の傍近く寄って「先生」と小声で叫んだ。早くも其の様子を横目に睨める大西郷は、「ソラ来をった。刺さば大声でもうヒトッツと叫んで腹を突き出して驚かしてやろう」と思っていると、案に相違の親しみのある声で「先生」と呼んだので、何事であろうかと意外に感じて其の男の顔を見ると、「どうぞこれをご覧下さいまし」差し出した一封の手紙、見れば見覚えのある手蹟(しゅせき)、同志の桂久武からの手紙であった。
 大西郷は目に物言わせて、大きく肯(うなず)き其の手紙を受け取るや四方に心を配りつつ封を切って読み下すと、情熱の火照るが如き筆もて、大西郷の不幸を慰め、「決して短気を起こさるるな、我々同志の者は機会を見て藩庁に対し赦免のことを斡旋するから、耐忍しつつ時機の到来するを待たれよ。又御用があればこの使者に言いつけられよ」とあった。
 桂をはじめ同志の面々は、無情なる命令に接せし大西郷が前途の希望を暗に葬り、短慮な事があってはならぬと、この男をば警衛のため密かに役人中に加え置き、ひそかに手紙を手渡しさせたのであった。
 遠島(島流し)の沙汰を聞いて驚かなかった大西郷も、情義の充てるこの文を見てそぞろに落涙を得なかったけれど、さりとて前途に幾分の光明を認むるを得た。
 これで、桂久武と西郷隆盛の心の結びつきが良くわかると思う。



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桂 久武 霧島山麓の開拓にあたる(桂内集落のこと)

桂久武の業績で特筆すべきものに霧島山麓開拓の事業がある。
久武の財政的事業として今に残る桂内集落がそれで、霧島町田口霧島神宮付近の集落のことである。
 自治かごしま(昭和32年10月号、郷土史家村野守治氏論文)に桂久武の霧島山麓の開拓事業について、詳しく述べてあるのでそれを参照しつつ、其のあらましを述べることにする。
 桂久武は藩政の中枢にあり、大政奉還後の世の中がどの様になるかを見通していた。即ち、明治維新により近代国家になれば、士族制度は必ず廃止され、多くの武士たちは失業の憂き目にあうことを予知し、桂家と其の家臣たちの為、百年の大計を考えた末、其の救済対策として開拓事業を思い立ち、志布志、福山方面を探したが適地を得られず、最後に霧島の田口村を候補地に決め、藩から払い下げを受けて開拓に着手したのである。
 ここは霧島神宮別当寺の寺領で廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)の結果、藩領となっていたので払い下げは容易であった。
 入植について、家臣たちに対する久武の態度は強制的で、入植しない者は士族の家督を取り上げるという厳命であったらしい。
 家臣や其の家族を露頭に迷わせたくないという家臣たちへの愛情と、この方法ならどんな世の中になろうと必ず生きて行けるという、開拓への確固たる信念があったればこそこの様な強い態度がとれたのであろう。
 最初、桑原武右衛門、崎山清太郎をはじめ約10戸が入植した。
実に慶応三年(1867)のことで、これが後に繁栄を誇った桂内集落の始まりである。この後次々に増加し、明治3年頃は、30戸が入植している。
 この間、家臣たち即ち入植者たちの家造り、食糧確保、水田に不可欠の水路建設など多大の経費を要したというが、この費用は全額桂家から出している。即ち久武の家老としての役料高千石、明治になってからは藩の参政、都城、豊岡の県令(知事)としての収入は全てこれ等の開拓事業の経費に充てられた。
 この様に久武の収入は全部開拓費に使われたので、桂家では生活が苦しく、家族は自活のため内職をして生計費をまかなっていた。
 この後、西南戦争で久武の戦死という大事変もあったが、開拓事業には西南之役の影響もなく、開拓地は次第に拡張され、徐々に生活の安定を見るようになった。
 明治三十九年に久武の二男桂小吉は高千穂の仮屋原に開拓記念碑を建て、開拓の概要を記して父の事業を後世に伝えているが、それによると明治3年30戸あったのが明治39年には60余戸に達している。
 その後、集落内の自然増加と、一部外からの入植者を含めて戦前(大東亜戦争前)には120戸、終戦後は140戸に増加している。
 霧島小学校の通学戸数約320戸だから、桂内がその半数近くを占めていたことになる。この学校が創設された頃は、桂内からの児童が全体の3分の2を占めていたという。学校の敷地も桂家から無償で提供されていた。
 こうして、開拓された桂内の面積は、周囲2里(8km)その内訳は次の通りである。
   桂内集落の農地解放前の台帳面積

39町4反2畝 (  39.42ヘクタール)
93町8反3畝 (  93.83ヘクタール)
宅地 6町7反1畝 (   6.71ヘクタール)
山林 9町3反4畝 (   9.34ヘクタール)
原野 24町5反 (  24.5 ヘクタール)
合計 173町8反26畝 (173.826ヘクタール)

 実測面では台帳面より遥かに広く、総面積230町歩(230ヘクタール)その外に約30町歩(30ヘクタール)の山林原野があるという。
 何もなかった荒地を切り開いてこれだけの農地を造り上げたのだから、久武や其の家臣、即ち桂内一同の業績は誠に偉大という他はなかろう。
まさに粒々辛苦の結晶である。
 ここの集落を2つの用水路が流れている。
1つは長さ5km、1つは3km、2つとも開拓のため入植した当初から建設されたもので、立派な水路である。
水源も霧島山麓から流れてくるだけあって豊富である。
 桂家には、戦前 小作料として、年約800俵の米が納められていたというが、小作料そのものも県下一般の平均よりはるかに少なかったということである。
 今や久武の先見の明と信念と、入植者たちの努力と団結と、桂家の巨額に及ぶ私財投入のお陰で其の恩恵は桂家はもとより、家臣たちや其の子孫にまで及んでいるのである。
 入植当時の不安と苦労難儀は大きかったが、久武のお陰で遂に全戸生活の安定を得た上、各家とも子孫繁栄を見るに至った。
 久武の考えた禄を離れる家臣たちの民生安定は遂に成ったのである。

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桂 久武 父子の墓

 鹿児島市浄光妙寺跡、現南洲神社正面の高い石の階段を登りつめると大きな石の鳥居をくぐる。左右に大小様々の墓石が所狭しとばかりに立ち並んでいる。
 正面に向って進むと更に一段高くなって此処もまた広い墓地いっぱいに墓石が立っている。この上の段は、正面中央の最前列に一際大きな墓がある。
これが西郷隆盛の墓で一年中香華の絶えたことはない。
其の左右に桐野利秋、篠原国幹、別府晋介、村田新八などの墓があり、背後に幾十百ともしれぬ数の墓が林立している。
 此処が史跡南洲墓地で、此処に眠る霊2023名、合同墓あるため墓石の数749基、いずれも南洲翁の徳を慕い、西南之役に馳せ参じて散華した若人たちの霊を弔う墓である。
 さて、南洲翁の墓に向かって右燐が篠原国幹、次は村田新八、淵辺高照、別府景長(晋介)と続いて五番目に桂久武の墓がある。大きな丸い土台石の上に立っており、桂久武と彫り込んである。そして、其の直ぐ後ろに久武の長子桂久暠(ひさはる)の墓が建っている。西南之役で父子揃っての戦死は数少ない由である。
 この墓について、鮫島志芽汰氏(歴史家)は次のように語っている。
「私は南洲墓地の序列を見まして、本来ならば桂久武さんが西郷さんと並んで座られる所であるのに、余り人前に出ることをされなかったがために、当時墓を造る衝にあった県庁の人達が知らないままにああいう序列にしたのだろうと思います。桐野利秋、篠原国幹、別府晋介よりももっと南洲翁のそばに座られるべきだと思います。(久武サー、もちっとそばせえおじゃはんか)と恐らく南洲翁は言われたに違いないと思います。」
 西郷隆盛と桂久武の間柄を知れば知るほど、誰しも全くそうだと同感を覚える言葉である。
 墓地の北隣に南洲神社があり、西南之役に戦死した南洲翁以下6300柱の霊を祭ってあり、毎年9月24日の大祭には奉納武道大会外各種の行事が催され、賑わいを見せている。
 又、南洲戦没百年記念として、、直ぐ近くに南洲記念館が造られ、観光客其の他多くの人々に感銘を与えている。このため今は正面石段を登らなくても、車で直ぐ近くまでける様になったので、年寄りや足の不自由な人でも楽に参拝できる様になった。

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